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料理が語る歴史のひとこま

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 「料理の王」と称えられたアントナン・カレームは19世紀を代表する偉 大な料理人である。豪腕政治家タレーランと富豪ロスチャイルド家で働 いた経験がカレームを大きく飛躍させた。タレーランと手を組んで2年 間続いたウィーン会議をリードしたことはよく知られる。また6年間働 いたロスチャイルド家では経済的な制約から完全に自由となり、あらん 限りの想像力を駆使して高級料理を作った。  カレームのスタートはパティシエである。「芸術には5つある。すなわ ち絵画、詩、音楽、彫刻、建築であり、建築の主要な分野に製菓がある」と信 じ、菓子用のデッサンやスケッチを研究するため国立図書館を訪れ、建 築家の作品や版画やデッサンを調べた。後年、そのことが祝宴を飾る巨 大なピエス・モンテの製作に繋がる。  「明敏かつ敏感な味蕾、完全かつ鋭い味覚、強靭かつ勤勉な性格をもち、 技術もすぐれ、実際に身体を動かし、また繊細さ、秩序、経済を統合できな ければならない」という言葉は、彼が理想の料理人について述べたもの である。ヨーロッパの王侯貴族からの要望の中から彼が選んだ最終章は ジェームズ・ロスチャイルド家。新興ブルジョワ上流社会のシンボルだっ たロスチャイルドの個人資産は莫大で、国王の10倍もの富を築いた大富 豪は雇用条件として欧州最高の食卓、有給休暇、高給の3条件を提示した。 カレームは残された時間を執筆に割ける有給休暇の条件を喜んだという。  ロスチャイルド家の正餐は少人数の招待客なら豪邸のダイニング、3 千人規模の大レセプションなら庭園の舞踏会場で開催された。正餐用に 食器一式が完璧に揃えられ、地下カーヴに数千本のシャトー・ラフィッ トが貯蔵されていた。招待客は国内外の賓客だがユゴーやバルザックシ、ョ パンやリストなど各界の著名人も含まれた。  カレームの業績はいくつか考えられる。卓越した菓子職人兼料理人、数々 のレセプションで采配を振るう有能なオーガナイザー、最後に多くの著 作を世に送る料理作家の3点だろう。菓子職人兼料理人として建築学か ら構想を得て創造した、王侯貴顕の豪華な食卓を飾る壮麗なピエス・モ ンテや、20世紀的なテーマである料理術の複雑化と簡素化という課題を 取り上げた。またスープを基本とするメニュー・スタイルを1970年代に 起こった「ヌーヴェル・キュイジーヌ」と同じ呼称で「新しい料理」と呼び、 何百種類のソースと冷菜料理を発明し、フランス式サービスからロシア 式サービスへの移行を推進した。  優秀なオーガナイザーとしてシャンパーニュ地方で開催された伝説 的なヴェルテュの公式晩餐会を陣頭指揮したり、パリのシャンゼリゼで 1万人が出席した大レセプションのシェフとして活躍した。作家として は『パリの宮廷菓子職人』『フランスの給仕長』『19世紀のフランス料理術』 など多数の料理書を出版した。  晩年は死を覚悟しながら執筆と出版に情熱を傾けた。19世紀の美食神 話を体現し、「人生は短く、栄光は崇高なもの」と書いたカレームほど、後 にも先にも栄光の恩恵に浴した料理人はいないだろう。1833年、天才と いう宿命の炎に焼き尽された50年の生涯を閉じた。 



宇田川 悟●作家
1947年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。フランスの社会・文化・食文化に詳しい。ブルゴーニュワインの騎士団、シャンパーニュ騎士団、コマンドリー・ド・ボルドー、フランスチーズ鑑評騎士の会などに叙任。著書に、『食はフランスに在り』(小学館ライブラリー)、『ヨーロッパワインの旅』(ちくま文庫)、『フランス美味の職人たち』(新潮社)、『フレンチの達人たち』(幻冬舎文庫)、『VANストーリーズー石津謙介とアイビーの時代』(集英社新書)、『吉本隆明「食」を語る』(朝日文庫)、『書斎の達人』(河出書房新社)、『超シャンパン入門』『東京フレンチ興亡史-日本の西洋料理を支えた料理人たち』(共に角川oneテーマ21)など多数。訳書に、『旅人たちの食卓-近世ヨーロッパ美食紀行』『フランス料理と美食文学』(共に平凡社)ほか。


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