活動内容

平成25年度 一般社団法人日本エスコフィエ協会 総会晩餐会

一般社団法人日本エスコフィエ協会 講演会

総会後の午後5時からフランス食文化研究者、翻訳家の大澤 隆氏をお招きしエスコフィエとの関係も深いサヴォワ公国に関するご講演をいただきました。 

『フランス・イブリッド-サヴォワ公国の記憶』
ホテル・サヴォイを成功させた3人の天才シュトラウス、エスコフィエ、リッツ

現代のフランスという国は、今は歴史の闇に消え去ったさまざまな小国、大国の文化が組み合わさって出来た、モザイクのような「複合体」です。本日は、モザイクの一片であるサヴォワ公国に絞ってお話しします。


1889年(明治22年)、料理にエスコフィエ、サービスとマネジメントにリッツを擁してロンドンに「ザ・サヴォイ」がオープンし、いわゆるグランド・ホテル時代の幕が開きました。サヴォイという名前が選ばれたのは、その前身となった建物が、13世紀に当時のサヴォワ伯によって建設され、その館と周辺地域が伯の称号に因んで、英語読みでサヴォイと呼ばれていたからです。彼が、現在はイタリアとスイスに接するフランス領となっているサヴォワからはるばるロンドンまでやって来て壮麗な館を建てたのは、甥に当たる当時の英国王の政治顧問だったからです。エスコフィエの生まれ故郷ニースも、フランスでもイタリアでもなく、比較的最近まではサヴォワ領でした。


サヴォワ家は、初代が11世紀に辺境伯の位を得てから、サヴォワの統治者として歴史の舞台に登場します。その頃から13世紀あたりまでのサヴォワ家の領地は、現在のフランス、スイス、イタリアの三カ国に少しずつまたがっていました。当セルリアンタワー東急ホテルの福田総料理長と長年親交があり、賞味会などで一緒に仕事をしたこともあるパリの二つ星「グラン・ヴェフール」のオーナー、ギィ・マルタンは、サヴォワ生まれです。だから、彼の得意料理の一つがイタリア的なパスタ料理-フォワグラのラヴィオリ包みなのも、単なる偶然ではないのです。


また、サヴォワは独自の言語を持っていました。しかしサヴォワ家は近隣の列強との交渉の便宜を優先してサヴォワ語を棄て、16世紀には分水嶺からフランス寄りはフランス語を、イタリア寄りはイタリア語を強制するに至ります。これに対してフランスは、16世紀からフランス語の純化に努め、19世紀に入ると国語統一を国民国家形成上の最重点政策とし、強力な近代的中央集権国家を完成するために地域言語を徹底的に排除・弾圧して来ました。この方針は国民国家の限界が露呈してきた20世紀末さすがに見直され、1999年に地域言語教育が公認されました。多様な地域言語の排除は、多様な地域食材を無視して大量生産された食材だけを使って料理を組み立てるのに似た愚行といえます。


高山地帯で地味の痩せたサヴォワは経済的に貧しく、20世紀初頭のフランス人は、サヴォワ人と聞くと、出稼ぎ、特に大都会のタクシー運転手と少年の煙突掃除夫を連想したそうです。しかし、現代に入ると、冬季オリンピックの戦略的誘致、国立公園やスキーリゾートの開発等による観光政策が奏功して、貧しさはすっかり過去の話となりました。


サヴォワは、欧州の北西部とイタリア半島を結ぶ交通の要衝なので、古来、強国に蹂躙されて来ました。古くはハンニバルの遠征路だったし、中世にはローマ法皇と神聖ローマ皇帝とを結ぶルートの一つとして重要でした。法王と皇帝は、相互に叙任権を握っているので、この時代、移動宮廷と言ってアルプスより北の諸都市を常に巡歴していた皇帝は、事あるごとにアルプスを越えてローマまで軍勢を率いてやって来たのです。そして近世から近代にかけては、列強の影響下にある小国が犇めき合うイタリア半島は勢力均衡上重要だったのです。


中世の大市の情景

一方、サヴォワは商業的にも重要でした。商業の必要条件は、安全と平和です。アルプスの峠はどこを通っても険しいことに変わりはないのですが、ピエモンテとサヴォワを結ぶルートは、サヴォワ家が単独で統治していたため、他のルートに比べて格段に治安が良く、中世の早い時期から、イタリアの海港都市とシャンパーニュの大市を往来する商人たちを惹きつけました。


この大市に、ハンザ商人は、北海沿岸から総じて嵩張って重く、単価の安い日用品(羊毛、棒鱈、小麦、塩など)を、地中海商人は黒海・東地中海沿岸から主に軽くて単価の高い奢侈品(香辛料、医薬品、宝石、絹織物など)を持ち込みました。そして大市の大繁盛を物流面で支えたのは、シャンパーニュ地方を流れるムーズ、マルヌ、セーヌの三河川です。しかし、シャンパーニュの大市は、14世紀にフランスで百年戦争が起こると完全に凋落してしまいます。それにも拘らず、サヴォワはジュネーブやリヨンに出来た新たな定期市への通路としても機能したので、税収の極端な落ち込みを回避出来ました。


サヴォワで好んで使用された贅沢なサフラン

サヴォワの一般民衆は20世紀半ばまで貧しいままでしたが、いつの頃からか、高価な香料であるサフランが、山村の一般家庭にまで浸透するということもあったのです。サヴォワを通過する商人たちが代理通貨として用いたので、広く流通していたという説もあります。また20世紀中頃まで、サヴォワでは細々ながらサフランが生産されてもいました。比較的入手しやすかったからこそ、ブイヤベースのような地方料理にも普通にサフランが使えたと思われます。


サヴォワ家は、11世紀以来、戦争、外交、婚姻を巧みに活用して領土を拡大してきました。14世紀にニースを編入、百年戦争では19代目当主が巧みに立ち回って1416年に公爵位を獲得、ここにサヴォワ公国が誕生しました。1713年には32代目がシチリア王位を獲得、これを1720年に神聖ローマ帝国へ与え、見返りにサルディニア王位を得ます。ナポレオンが登場すると、サヴォワ家は大陸側領土全てをフランスに奪われますが、彼の失脚後、かのアントナン・カレームがフランス料理の名を高からしめたウィーン会議でジェノヴァを獲得します。したがって宮廷の食生活は、時代とともに豪奢になっていきました。元々のサヴォワ=ピエモンテ的要素に、ニース編入後は地中海的要素が、さらにジェノヴァ編入後は贅沢なブルジョワ料理がサヴォワ家の食卓に取り込まれて多様な食材と香料を駆使した独特の食文化が花開き、ロシアの宮廷料理人が研修に来ていたという記録もあります。


大革命の影響から、イタリア半島の住人たちにもようやく「イタリア人」としての民族意識が生まれ、サルディニア王国は唯一の「イタリア人の独立国」であることから民衆の支持が集中、1859年にオーストリアとの間でイタリア独立戦争を戦います。勢力均衡の原理からサルディニア側についたルイ=ナポレオンがロンバルジア地方全域を獲得すると、サヴォワ家は彼から同地方を譲り受ける代わりに、ニースを含めたサヴォワ地方をフランスに割譲してしまいます。


初代イタリア国王

すでに南イタリアを征服していたガリバルディ(彼もニース生まれ!)から征服地全体を献上されたサヴォワ家の40代目の当主で第8代サルディニア国王は、イタリア統一がほぼ完成したとして、1861年にイタリア王国の初代国王に即位しました。この王国は1946年6月まで存続しますが国民投票によって否定され、11世紀以来、政治的な王冠を求めて43代940年以上にわたって拡大して来た統治者としてのサヴォワ家も、ついに終焉を迎えました。


ニースがサヴォワ領だった期間は、ざっと470年間です。江戸時代、徳川家の治世は、正確には265年間でした。そして、その後の日本に現在まで続く決定的な文化的影響を残しました。これだけ長期にわたったサヴォワ家の歴史もまた、代々サヴォワ領に暮らした人々のアイデンティティに決定的な影響を残していると考える方が自然でしょう。


1846年生まれのエスコフィエは、14,5歳のときに郷土のフランスへの編入を体験しています。ですから、彼の遺伝子にも精神の基底にもサヴォワ人としての気質=誇りが深く刻み込まれていると考えて良いでしょう。彼らの際立った特質は、郷土への強い誇りと粘り強さ、比喩的に言うなら、政治的王冠を追求した国家は滅んでも、郷土が育んだ文化的な王冠を不滅なものにしようとする強烈な意志と自負心なのです。1903年、それまでの料理技法を整理・体系化して5000に上るレシピをまとめあげたエスコフィエの「ル・ギッド・キュリネール」もまた、こうしたサヴォワ的な誇りに裏打ちされたサヴォワ的粘り強さの産物と言って良いでしょう。フランス料理を王国に例えるならば、この本はその近代における領域を確定したので、時代的にも多様な地域言語を徹底して排除・弾圧するような統一志向の強権的な国家意志と軌を一にしているように見えるかもしれません。しかし、彼のこの著作の真の偉大さは、それとは正反対に、多様な地方料理をひろやかに包括して、その本質をフランス料理の体系に取り込むことで、かえってフランス食文化の多様性を担保したことにあります。


日本エスコフィエ協会の皆様には、エスコフィエが担保する多様なフランス料理の伝統を継承しつつ、皆様の郷土である日本に(より具体的には皆様の「故郷」=生まれたふる里と、今現在拠点とされている地域の両方に)、深く、さらに深く根ざすことで、食文化の誇り高き王冠を戴くプロフェッショナルとして、日本人ならではの、たゆみない革新を果たしていって頂きたいと思います。そのことが、フランスと日本の、ひいては世界の食文化を豊かにすることにつながるのですから。


詳しくはこちらをクリックしてください >>晩餐会 >>総会 >>ディシプル授与式